四国で修行

意識の持ち方として、常に余計なことに気を向けず、今起きている自然の働きや恵みによって自分を含め全ての存在は創造され、生かされていること(大自然の見えざる力、宇宙の意識)の不思議をただ感じて(頭でそう考えるのではない)感謝することに“強く集中する”(*) ことが肝要であり、それを踏まえた普段の思考なり行動なりをすべきだと思います。このことで人は謙虚になって人に宿る魂(本当の自分)は自然の摂理の下に治まります。さもなければ今起きているように人は利己主義に陥り、人間中心・自己中心の思考を行い、自らの幸せな暮らしのために自然を平然と壊すなど、この世の調和を乱して平和が実現することもありません…

(*) “強く集中する”には瞑想が有効です。スポーツでいえば「ゾーンに入る」という感覚を修得することです。また仏教の瞑想とは「身心の観察」であり、常に自分の今の状態に気づいて自らを正しくコントロールするということです(ここでは余計な雑念が湧かないようにするのではなく、雑念が湧いたと気づいたら直ちに元の集中状態に戻せばよいということ)。NHK番組・トリセツショー「新・めい想」が参考になります。

四国遍路札所一覧が「走り遍路」サイトの方にあります

当サイトの概要

『四国遍路』は弘法大師・空海ゆかりの地を巡りながら、自分の在り方を改善する修行の場です。無理なく楽に生きられるようになっていくのですから不思議で楽しいです。
この四国全体に及ぶ修行環境に身を置くことによって日常生活から離れた自分だけの時間を持ち、じっくりと自分に向き合えます。自分はいかに在るべきかを「自然の摂理」(自然の恵みや自然の働き)を意識しながら探求することとなります(四国リトリート)。

当サイトは当サイト開設者が行う遍路修行の模様を掲載していますが、その内容に不確実なことを含む場合があります。また、修行の進捗に応じて随時、掲載内容の見直し修正を行います。

修行目的

人はさまざまな物事に接した瞬間に脳思考が始まり、過去の情報を引き出し、決め付けるなどの作業を無意識に行い、これに束縛されます。この過程に自我・我欲のエゴも入り込みますから、それをどうにかしたいという期待も生じます。人は自らが思い描いてしまう世界に惑わされながら生きています。

脳思考を抑えることで自らが描く想像の世界が消えて、この世の見え方が一変する寂静の無我の境地に入ります。これを味わうには、余計な思考をしない修行が必要です。
このことによって、物事のありのままを捉えられるようになると思います。

本当の生き方

私たち人間は平素、「人間社会のルール」や「自分自身の信念」に則して生きていますが、もっと根本的で大事なルールを忘れていると思います。それは「宇宙の法則」や「自然の法則」などと呼ばれるものですが、ここでは【自然の摂理】といいます。そして神や仏という言葉は自然の摂理そのものを表現するものと解釈します。

この世のあらゆる現象や存在は「自然の摂理」によって必要・必然・最善としての【意味】を持って生じているにもかかわらず、地球上でもっとも影響力のある人という存在はエゴ(自我・我欲)によって「自然の摂理」から外れ、この世の調和を妨げる様々な問題を引き起こしています。これによって結果的に人自身もその報いを受けて苦悩に陥っています。それが今の世の中の混沌とした状況です。

他方、私たち人間はこの世の実相を正しく認識して生きていません。私たちが存在する現象界(物質界)は、人の感覚によって知覚できる範囲内の限られた世界です。人はあらゆる現象や存在の背後にある本質を認識できないのです。人間世界の有り様は、人の分かる範囲内のことで何とかしようとしているに過ぎません。人が認識し得る範囲を超えた世界は間違いなくあると思います。
そして、悟りとは「迷妄(めいもう)を払い去って生死(しょうじ)を超えた永遠の真理を会得すること」ですが、ここでいう「真理」、つまり「本当の世界」を人は通常、知り得ないのです。

輪廻転生なるものがあるとすれば、「本当の自分」とはカラダとは別の意識である「魂」だと思います。そして過去世の経験を踏まえて今の人生を送っています。
「本当の自分」が宿った人を「自然の摂理」に則して生きさせることで、この世で生きている【意味】がわかってきます。
そのためには「自然の摂理」の下で一日一日を平穏無事に生かしていただいていることを当たり前ではなく有り難いと「感謝」するとともに、その不思議さに畏敬の念を抱いて「謙虚」でなければなりません…。

「本当の世界」や「本当の自分」を意識しながら、ストレスのない、ラクで楽しい「本当の生き方」をしたいものです。

いのり

いのりとは自らの思いや気持ちを言葉にして自らの意志とすることだと考えています。自らに正しい思いや気持ちがあることが前提です。それを現実のものにする手段がいのりです(そう思うからそうなり、そう思わないからそうならない)。
形式的にしろ未だにいのりが当たり前に行われているのは、いのりには何らかの作用があると潜在的に気づいているからだと思います。

魂は本来意識体であり、それとして存在する次元では、思うことが即ち現実である一方で、穢れた思いがあってはならないことから、穢れた魂は人に宿って修行するようになっているのだと方便として仮に考えています。物質世界では物的手段を介さなければ思いは現実となりませんから、穢れた思いによる今の世の中の混沌とした状況がこの程度に収まっているともいえます。これはいのりの力が封印させられていることでもありますから、いのりに信ぴょう性がなくなることで、いのりも形式的になってしまうのはある意味当たり前です。
本当のいのりをしたいのであれば、まずはいのりの力と尊さを信じて、穢れた思いを一切抱かない修行をすることだと思います。それに応じて封印も弱まってくるのではないかと考えています。

いのりの語源は「い(意)+のり(宣り)」とのことです。「のる(宣る)」とは辞書で「本来は、神や天皇が重大な事実を宣言する、また、軽々しく言うべきでないことを表明すること」となっています。
自らの神性や仏性を呼び覚ますために、神仏の意に沿うことを宣言したり、神仏の教えを唱えたりすることが本来に近いのかもしれません。そのような意志を持つことがいのちを輝かせることにもなります。
いのりとは軽々しいお願い事をするのではなく、自らの尊い意志を実現すべく絶えずそのことを意識し続けるために行うものと考えています。

【参照サイト】 真言宗智山派「総本山智積院」(新しいウィンドウで開きます)
祈りとは人の本性の行為であり、「いきいきと生きること」がいのりの意味であると紹介されています。「祈りはいのちに関わるような神聖なものを宣言することであり、生命の根源の響きをことばに乗せて響かせるもの。鳥が大空を舞い、魚が水の中を泳ぐというのは自然本能として普通に行っていることであるが、人の場合も自然本性として祈ることでいきいきと生きられるのである。人とはそもそも宗教的な存在なので、絶対的なものを求めざるを得ないが、お願いとしての祈りをするのではなく、いきいきと生きるような祈りをするべきであり、生きることと祈ることの間に深いつながりがあることに早く気がつくべきだ」と述べられています。

手を合わせると-人はなぜ祈り、祈りは何をもたらすのか-

勤行(お勤め)

勤行とは仏道修行の一つで予め決められた内容の読経や回向などの一連のいのりを行うものですが、思いや気持ちのこもらない形式的なものになりがちなので、前もってお経や勤行の内容を理解し自分のものにしておくことが望ましいです。
お遍路では札所参拝時の納経として勤行が行われますが、「お勤め」ともいわれるように家でも日課として取り組めばよいと思います。

勤行次第

『真言宗仏前勤行次第』を次のリンク先に掲載します。(勤行次第は宗派や用途において多少の違いがあります)

勤行次第
真言宗仏前勤行次第 インドで発祥した仏教は中国に伝わったときにお経が漢文に翻訳されましたが、中国から日本に伝わったときに...

勤行次第の解説

『真言宗仏前勤行次第の解説』を次のリンク先に掲載します。

勤行次第の解説
唱え方などは 「勤行次第」ページ をご覧ください。 真言宗仏前勤行次第の解説 いのりとは語源として「意を宣(の)ること」...

般若心経

般若心経は日本で一番よく唱えられているお経だといわれています。「勤行」で唱えるお経の中心でもあります。

人は脳が発達しているが故に負の側面として、知らず知らず常に深く考え込んで事を複雑化し不安を抱いて、勝手に苦悩にさいなまれるという困った生き物です。でもその一方で、頭を空っぽにすれば幸せを感じられるという面白い性質も持ち合わせています(そもそも生きることは喜びでなければ生は成立しません)。
これらの性質を上手く利用すれば、人の優れた知能を最大限に生かした楽しい人生を送ることもできますが、頭でっかちな現代人にとっては頭を空っぽにすることが意外に難しいです(まさに発達した脳の負の側面)。その頭を空っぽにするための方法を説くのが般若心経です…。

『般若心経の解説』を次のリンク先に掲載します。

般若心経の解説
般若心経全文と意訳 仏説摩訶般若波羅蜜多心経ぶっせつまーかーはんにゃーはーらーみーたーしーんぎょー観自在菩薩かんじーざい...

その他のいのり

神道の「祝詞のりと」や、キリスト教でみられる「アファメーション」などもいのりの修行に取り入れています。

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いのり
「いのり」の記事一覧です。

身心の観察(瞑想)

仏教の瞑想とは「身心の観察」をしている状態のことです。
仏教の瞑想の目指すところは、心の静けさを表す「寂静」です。寂静は仏語として「煩悩を離れ、苦しみを去った解脱の境地。涅槃。」の意味があります。常に余計なことに執着せず、深く心を落ち着かせられることが修行のテーマだと考えます。

人は自らの発達した脳によって、何かをとらえた瞬間に脳の拡張思考がはじまり、我欲が強いためにおのずとその煩悩に心が乱され、思うように生きられない苦悩に陥ります。それがブッダのいう「一切皆苦」だと思います。
般若心経にもそのこととその対処法が説かれていますが、知識として知っているだけでは意味がありません。とにかく心を深く落ち着いた状態にする実践が基本であり、カラダと心を客観的に眺めて、無分別・中庸(ノージャッジ・ニュートラル)で在ることで心が勝手に苦しみを生み出したり増幅させたりしないようにしなければなりません。

日常生活においてそうなるのは困難です。それだからお遍路をして、日常でもそうできるようにします。

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身心の観察(瞑想)
「身心の観察(瞑想)」の記事一覧です。

私の四国遍路

“自分の道は自分で切り開くものである”と教育されてそれを当たり前だと思っている人が多いと思いますが、“何をして生きるべきか”を自らの自我に問わない方がよいと私は考えています。
あらゆるものは「自然の摂理」によってあらかじめ意味を持って創造されたものであり、その意味に沿うものが難なく無理なく生存できるようになっていると思うからです。自分も自然の一部であり、自然そのものといえます。それとは別だという誤った意識が自我(穢れた魂)です。カラダも魂も「自然の摂理」と繋がっていることに気づくことで穢れた魂は浄められて、無我の魂となります。
このことによって身と心をあるがまま・生かされるがままに委ねてみたいのです。あるがままを捉え、生かされるがままを得られる「無我・無執着の悟りの境地(涅槃)」(自他の区別の無い自利利他の境地、ワンネス(oneness)の境地)に至るための実践手法を探るのが私の四国遍路です。
私の四国遍路の模様を次のリンク先に掲載します。(新しいウィンドウで開きます)

走り遍路
走り遍路は7巡目を終えたところまでですが、親の介護に専念するため、走り遍路を休止しています。介護も良い修行になります… ...