へんろ道

現在実施中の『走り遍路7巡目』のあるときの途上で、30代ぐらいの女性に追いつきました。自分の苦悩を何とかしたいという思いから歩き遍路をしているように見えました。あまり会話したそうではなく、「(遍路してみたものの)なんにもないし…」という言葉を漏らしていました。何と返すべきだったかと後になってから、“お遍路は自分に向き合うためにするものだと私は思っています”と言えばよかったと思いました。日常生活では、自分に向き合うことを遠ざける物事ばかりです。答えはすべて自分の内にあります。それに気づくことが大事なのに、答えを外に求めがちな人は、その修行にふさわしい環境が心を深く落ち着かせられる【何も無いところ】だと分かりません…

走り遍路7巡目、スタートしました!今回のテーマは…[「私の四国遍路」の項へ

NHK番組「こころの時代」の『瞑想でたどる仏教〜心と身体を観察する』がアンコール放送されています…[関連記事

 

当サイトの概要

『四国遍路』は弘法大師・空海ゆかりの地を巡りながら《自分の在り方を改善する》修行の場です。無理なく楽に生きられるようになっていくのですから、楽しいこと間違いなしです。
この四国全体に及ぶ修行環境に身を置くことを「四国で修行(四国リトリート)」と呼びたいと思います。日常生活から離れた自分だけの時間の中でじっくりと自分に向き合い、自分はいかに在るべきかを「自然の摂理」を意識しながら探求します。

当サイト名称『へんろ道』とは《お大師さまの開いた修行の場》の意を込めたものです。この修行環境は今なお継承され、広く認容されています。
当サイト『へんろ道』(心持ち編) 及び 別サイト『走り遍路』(実践編) は、当該サイト開設者が行う遍路修行の模様を掲載しています。この修行によって自らがどう変わるかなどを検証する中で、感じたことや得られたことなども記述していますが、その内容の性質上、不確実なことを含む場合があります。また、修行の進捗による考えや心境の変化などに応じて随時、掲載内容の加筆や見直しを行います。

本当の世界、本当の自分、本当の生き方

私たち人間は平素、「人間社会のルール」や「自分自身の信念」に則して生きていますが、もっと根本的で大事なルールを忘れていると思います。それは「宇宙の法則」や「自然の法則」などと呼ばれるものですが、ここでは《自然の摂理》といいます。この摂理の法身(化身)が神や仏であるともいえると思います。

この世のあらゆる存在は「自然の摂理」によって必要があって創造されたにもかかわらず、地球上でもっとも影響力のある人という存在は、その《エゴ(自我・我欲)》によって、この世の《調和》を妨げる様々な問題を引き起こし、人自身もその苦悩に陥っています。エゴについて ≫ 勤行次第「懺悔文さんげもん」解説参照 ※ここに戻るときはブラウザーの「戻る」操作にて

他方、私たち人間はこの世の実相を正しく認識して生きていません。人の感覚器官や人が開発した観測装置の能力では《本当の世界》をとらえきれないからです。人間世界の有り様は、人の分かる範囲内のことで何とかしようとしているに過ぎません。人が認識し得る範囲を超えた世界は間違いなくあります。
そして、悟りとは「迷妄めいもうを払い去って生死しょうじを超えた永遠の真理を会得すること」ですが、ここでいう「真理」、つまり「本当の世界」を人は通常、知り得ることはできないのです。

実際の転生のあり様を一般人が想像することは困難ですが、輪廻転生りんねてんしょうなるものがあるとすれば《本当の自分》は人の肉体に宿った《魂》だと思います。そして過去世の経験を踏まえ、意味を持って今の人生を送っています。それに気づかずに自らが宿った肉体の「エゴ」の意識のままでいると、本来の道を外れてしまいます。
自らが宿った肉体を「自然の摂理」や「調和」に則して正しく生きさせながら、「本当の自分」がこの世に生きる意味に立ち返えらなければなりません。その意味が何であるかの答えは「本当の自分」の内にしかありません。
「自然の摂理」の下で一日一日を平穏無事に生かしていただいていることを当たり前ではなく有り難いと《感謝》するとともに、その不思議さに畏敬の念を抱いて《謙虚》でなければ、その意味に気づかないままにこの人生を終えることになります。「本当の世界」や「本当の自分」を意識しながら、ストレスのない、ラクで楽しい《本当の生き方》をしたいものです。本当の自分について ≫ 般若心経解説参照 ※ここに戻るときはブラウザーの「戻る」操作にて

本当のいのり

生きるとは「いのち」を輝かせることであり、意志を持って生きることがいのちを輝かせることになります。その意志を明らかにさせるのが《いのり》です。つまり、生きるとは「いのり」です。
いのりとは人に宿った「魂」(本当の自分)の尊い意志の現れとともに自然と起こるものであり、自らの宿った人に心を込めて述べさせる行為です。その想いで生きると、自身にも、神仏にも宣言しながら生きるのです。これが神仏の意を受けた魂の使命です。
また、俗世(欲望が盛んな世界)に存在すると、その環境に感化してエゴが生じますから、正しく生きると意識しなければ自然と我欲にまみれていきます。「自然の摂理」に則して正しく生きさせるには、そのように生きるとの強い意志がなければそうなりません。その意味でも「いのり」が必要だと思います。

いのりの語源は「い(意)+のり(宣り)」とのことです。「のる(宣る)」とは辞書で「本来は、神や天皇が重大な事実を宣言する、また、軽々しく言うべきでないことを表明すること」となっています。「のり」とは突き詰めると、神の意が人にのり移るという意味なのかもしれません。
そして、現代人にとっての祈りとは「神仏に対して我欲を満たすためのお願い事をすること」のように見受けられますが、「自らの神性や仏性を呼び覚ますために、神仏の意に沿うことを宣言したり、神仏の教えを唱えたりすること」が本来に近いのかもしれません。
つまり、単なる願いは「望みだけのもの」ですから実現することはありませんが、意志は「望み+実行力」で現実化の可能性があり、その望みが神仏の意に沿うものであれば当然神仏の全面的なバックアップも得られて現実化の大きな励みとなります。本当のいのりが「願うだけのいのり」と「意志を伴ういのり」のどちらであるかは明らかです。
さらに、以上のように考えると「本当のいのり」とは特別なことや一過性の行為ではなく、自らの意志を実現すべく絶えずそのことを意識し続けるために行うものであるといえます。関連記事 ≫ 祈りとは神仏に感謝し導きに従うこと ※ここに戻るときはブラウザーの「戻る」操作にて

なお、祈りとは人の本性の行為であり、「いきいきと生きること」がいのりの意味であるという見方も現にあります(下記サイト参照)
それによると、「祈りはいのちに関わるような神聖なものを宣言することであり、生命の根源の響きをことばに乗せて響かせるもの。鳥が大空を舞い、魚が水の中を泳ぐというのは自然本能として普通に行っていることであるが、人の場合も自然本性として祈ることでいきいきと生きられるのである。人とはそもそも宗教的な存在なので、絶対的なものを求めざるを得ないが、お願いとしての祈りをするのではなく、いきいきと生きるような祈りをするべきであり、生きることと祈ることの間に深いつながりがあることに早く気がつくべきだ」と述べられています。

【参照サイト】 真言宗智山派「総本山智積院」(新しいウィンドウで開きます)

手を合わせると-人はなぜ祈り、祈りは何をもたらすのか-

勤行のすすめ(気軽に勤行!)

「本当のいのり」として身近にあるのが勤行です。まずはここから気軽にはじめると良いのではないかと思います。詳しくは次のリンク先に掲載します。

勤行のすすめ
気軽に勤行!勤行とは広義で「仏道を修行すること」ですが、一般的には、《日課として、読経どきょう(*1)や回向えこう(...

般若心経(解説付き)

般若心経は日本で一番よく唱えられているお経だといわれています。般若心経は上項の「勤行」で唱えるお経の中心として含まれますが、特別なお経ですのでそれ専用の項としてここに紹介します。般若心経(解説付き)を次のリンク先に掲載します。

般若心経の解説
般若心経は『般若波羅蜜多心経はんにゃはらみたしんぎょう』が正式名称です。般若心経・全文仏説ぶっせつ 摩訶まーかー ...

その他のいのり

神道の「祝詞のりと」や、キリスト教でみられる「アファメーション」などもいのりの修行に取り入れています。

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いのり
「いのり」の記事一覧です。

本当のおすすめ!「瞑想(内観)」

本当におすすめしたいのは《瞑想》です。瞑想にもいろいろありますので、《内観》といった方が分かりやすいかもしれません。先におすすめした「勤行」も瞑想の一つです。いのりも心の静けさの中で行うものとすれば瞑想だといえます。
仏教の瞑想の目指すところは、心の静けさを表す《寂静》です。寂静は仏語として「煩悩を離れ、苦しみを去った解脱の境地。涅槃。」の意味があります。深く心を落ち着けて集中力を増すことが、涅槃に至るために特に重要な要素だと思われます。

お釈迦さまの教えに「一切皆苦(すべては思うようにならない、思うように生きられない)」とあるように、この世に生きている限り、この種の苦しみは避けられないもののようです。
今更どうしようもないことに苦しんだり、他の人が何でもないのに自分は苦しみを覚えたりしますが、そもそも苦しみとは、それが結果として済んでしまったものであるにもかかわらず、いつまでもそれに執着してしまうことで生じていますので、苦しみに発展する前に自分の中にある執着に気づいて手放すことが有効な対処法となります。そして、今に苦しみがないことで、過去の後悔や未来の不安も起こらず、今を自由自在に生きられます。つまり、この世に生きる限りは避けることができない、苦しみが次々と生じてしまう環境の中で、涅槃寂静の安らぎで過ごすことを可能とさせる実践法が瞑想であり、それは心の寂静と集中力によって常に自分のカラダと心を客観的に観察し続けることです。

また瞑想は、人の感覚器官では物質的なものしかとらえられないところ、真理を観じたり、自己の神性・仏性を内観したりすることなどにも用いられます。

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瞑想(内観)
「瞑想(内観)」の記事一覧です。

私の四国遍路(走り遍路)

“何をして生きるべきか?”を自ら(自我)に問わない方がよいと私は考えています。あらゆるものは自然の摂理によって予め意味を持って創造されたものであり、その意味に沿うものが難なく・無理なく生存できるようになっていると思うからです。自我によることなく、また自らの感覚器官で捉える現象世界を真の姿だと思い込むことなく、身と心をあるがまま・生かされるがままに委ねてみたいのです。この無我・無執着によってあるがままを捉え、生かされるがままを受ける空の境地に生きるための実践手法を探るのが遍路7巡目のテーマです。
私の四国遍路(走り遍路)の模様を次のリンク先に掲載します。(新しいウィンドウで開きます)

走り遍路
寒い時期の野宿はかなり辛いです!荷物量の制約上、寝具は夏用シュラフです。これに透湿性のあるアルミ蒸着加工の封筒型シートを重ねるなどしていますが、ペラペラのものをいくら重ねても保温層ができませんから、体温は奪われます。テントを張っても結露がひ
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