四国で修行

どういう心持ちで生きていくのが望ましいかについて言い方はいろいろありますが、「今を100%感じながら、経験を積み重ねることが人生である」というのも分かりやすいです。これは「目の前に次々に起こることを淡々とこなしていくのが人生である」とも読めます。今の内外情勢をみても、今を生きることに不安やおそれを抱くばかりです。そうなると人は、これまでのことやこの先のことばかりに気を取られて、落ち着いて今に生きることができません。過去や未来は幻想や妄想に過ぎません。現実は今でしかなく、今に生きなければ意味がありません。《今を100%感じる》を目指して、いかに心を落ち着かせられるかがポイントだと思います…。

●走り遍路7巡目です!今回のテーマは…[「私の四国遍路」の項へ

当サイトの概要

『四国遍路』は弘法大師・空海ゆかりの地を巡りながら《自分の在り方を改善する》修行の場です。無理なく楽に生きられるようになっていくのですから、不思議で楽しいこと間違いなしです。
この四国全体に及ぶ修行環境に身を置くこと(四国リトリート)によって、日常生活から離れた自分だけの時間の中でじっくりと自分に向き合い、自分はいかに在るべきかを「自然の摂理」を意識しながら探求します。

当サイト『四国で修行』及び 別サイト『走り遍路』は、当該サイト開設者が行う遍路修行の模様を掲載しています。この修行によって自らがどう変わるかなどを検証する中で、感じたことや得られたことなども記述していますが、その内容の性質上、不確実なことを含む場合があります。また、修行の進捗による考えや心境の変化などに応じて随時、掲載内容の加筆や見直しを行います。

修行目的

人の思いが現実のありようを勝手に判断して決めていますから【名色分離智】、何も思わないことで現実のありのままをあるがままに正しく捉えられます【無分別智】。

しかしながら人は知能が発達していますから、どうしてもそれができません。さまざまな物事に接した瞬間に脳思考する身体と心の活動が始まり、過去の情報を引き出し、決め付けるなどの作業を無意識に行い、これに束縛されます。この過程に自我・我欲のエゴも入り込みますから、それをどうにかしたいとする期待も含みます。人は自らの幻想や妄想を現実世界と思い込んでいることに気づかずに生きています。

あらゆる物事はただここに存在しているだけの良いも悪いもない中庸(ニュートラル)な状態にあると捉えられたとき、つまり実体なき「空」として、あらゆる物事のありのままをあるがままに捉えられたとき、自らの価値観による観念が無くなって、この世の見え方が一変する寂静の無我の境地に入ります。

これを味わうには、余計な思考をしない修行が必要です【身心の観察】。
このことによって、無我・無執着の境地に至ってあるがままを捉え、生かされるがままを得られるようになって、自らが宿った人を自然の摂理に照らして正しく生きさせること、つまり自然の摂理の下に生かされるがままに生きさせることができて、自らの魂も磨かれます【天命】。

本当の世界、本当の自分、本当の生き方

私たち人間は平素、「人間社会のルール」や「自分自身の信念」に則して生きていますが、もっと根本的で大事なルールを忘れていると思います。それは「宇宙の法則」や「自然の法則」などと呼ばれるものですが、ここでは《自然の摂理》といいます。この摂理の法身(化身)が神や仏であるともいえると思います。

この世のあらゆる存在は「自然の摂理」によって必要があって創造されたにもかかわらず、地球上でもっとも影響力のある人という存在は、その《エゴ(自我・我欲)》によって、この世の《調和》を妨げる様々な問題を引き起こし、人自身もその苦悩に陥っています。エゴについて ≫ 勤行次第「懺悔文さんげもん」解説参照 ※ここに戻るときはブラウザーの「戻る」操作にて

他方、私たち人間はこの世の実相を正しく認識して生きていません。私たちが存在する《現象界(物質界)》は、人の感覚によって知覚できる範囲内の限られた世界です。人自らも含む、あらゆる存在の背後にある《本質》を人は認識できないのです。人間世界の有り様は、人の分かる範囲内のことで何とかしようとしているに過ぎません。人が認識し得る範囲を超えた次元の異なる世界は間違いなくあります。
そして、悟りとは「迷妄(めいもう)を払い去って生死(しょうじ)を超えた永遠の真理を会得すること」ですが、ここでいう「真理」、つまり「本当の世界」を人は通常、知り得ることはできないのです。

実際の転生のあり様を一般人が想像することは困難ですが、輪廻転生なるものがあるとすれば《本当の自分》は人の肉体に宿った《魂》だと思います。そして過去世の経験を踏まえ、意味を持って今の人生を送っています。それに気づかずに自らが宿った肉体の「エゴ」の意識のままでいると、本来の道を外れてしまいます。
自らが宿った肉体を「自然の摂理」や「調和」に則して正しく生きさせながら、「本当の自分」がこの世に生きる意味に立ち返えらなければなりません。その意味が何であるかの答えは「本当の自分」の内にしかありません。
今自分を生きさせている環境そのものともいえる「自然の摂理」の下で一日一日を平穏無事に生かしていただいていることを当たり前ではなく有り難いと《感謝》するとともに、その不思議さに畏敬の念を抱いて《謙虚》でなければ、その意味に気づかないままにこの人生を終えることになります。「本当の世界」や「本当の自分」を意識しながら、ストレスのない、ラクで楽しい《本当の生き方》をしたいものです。本当の自分について ≫ 般若心経解説参照 ※ここに戻るときはブラウザーの「戻る」操作にて

いのり

生きるとは「いのち」を輝かせることであり、意志を持って生きることがいのちを輝かせることになります。その意志を明らかにさせるのが《いのり》です。つまり、生きるとは「いのり」です。
いのりとは人に宿った「魂」(本当の自分)の尊い意志の現れとともに自然と起こるものであり、自らの宿った人に心を込めて述べさせる行為です。その想いで生きると、自身にも、神仏にも宣言しながら生きるのです。これが神仏の意を受けた魂の使命です。
また、俗世(欲望が盛んな世界)に存在すると、その環境に感化してエゴが生じますから、正しく生きると意識しなければ自然と我欲にまみれていきます。「自然の摂理」に則して正しく生きさせるには、そのように生きるとの強い意志がなければそうなりません。その意味でも「いのり」が必要だと思います。

いのりの語源は「い(意)+のり(宣り)」とのことです。「のる(宣る)」とは辞書で「本来は、神や天皇が重大な事実を宣言する、また、軽々しく言うべきでないことを表明すること」となっています。「のり」とは突き詰めると、神の意が人にのり移るという意味なのかもしれません。
そして、現代人にとっての祈りとは「神仏に対して我欲を満たすためのお願い事をすること」のように見受けられますが、「自らの神性や仏性を呼び覚ますために、神仏の意に沿うことを宣言したり、神仏の教えを唱えたりすること」が本来に近いのかもしれません。
つまり、単なる願いは「望みだけのもの」ですから実現することはありませんが、意志は「望み+実行力」で現実化の可能性があり、その望みが神仏の意に沿うものであれば当然神仏の全面的なバックアップも得られて現実化の大きな励みとなります。本当のいのりが「願うだけのいのり」と「意志を伴ういのり」のどちらであるかは明らかです。
さらに、以上のように考えると「本当のいのり」とは特別なことや一過性の行為ではなく、自らの意志を実現すべく絶えずそのことを意識し続けるために行うものであるといえます。関連記事 ≫ 祈りとは神仏に感謝し導きに従うこと ※ここに戻るときはブラウザーの「戻る」操作にて

なお、祈りとは人の本性の行為であり、「いきいきと生きること」がいのりの意味であるという見方も現にあります(下記サイト参照)
それによると、「祈りはいのちに関わるような神聖なものを宣言することであり、生命の根源の響きをことばに乗せて響かせるもの。鳥が大空を舞い、魚が水の中を泳ぐというのは自然本能として普通に行っていることであるが、人の場合も自然本性として祈ることでいきいきと生きられるのである。人とはそもそも宗教的な存在なので、絶対的なものを求めざるを得ないが、お願いとしての祈りをするのではなく、いきいきと生きるような祈りをするべきであり、生きることと祈ることの間に深いつながりがあることに早く気がつくべきだ」と述べられています。

【参照サイト】 真言宗智山派「総本山智積院」(新しいウィンドウで開きます)

手を合わせると-人はなぜ祈り、祈りは何をもたらすのか-

気軽に勤行!

勤行とは仏道修行の一つで、読経などの一連のいのりを決まった方法で行うものです。単に決められたことを形式的に次々にこなすものとなってしまわないよう、作法も含めて意味を抑えながら集中して取り組むことで、修行効果が得られると気づくことが大事です。お経や真言などの内容の意味にこだわるよりも大切なことがあるようにも思います。またお経や真言を唱えることは脳が活性化する呼吸法になるともいわれています。集中して行うことで既存能力が向上したり、新たな能力が生じたりする可能性を秘めているのかもしれません。
お遍路では札所参拝時の納経として勤行が行われますが、日常的に行うのもよいと思います。詳しくは次のリンク先に掲載します。

勤行のすすめ
気軽に勤行!勤行とは広義で「仏道を修行すること」ですが、一般的には、《日課として、読経どきょう(*1)や回向えこう(*2...

般若心経(解説付き)

般若心経は日本で一番よく唱えられているお経だといわれています。般若心経は上項の「勤行」で唱えるお経の中心として含まれますが、特別なお経ですのでそれ専用の項としてここに紹介します。般若心経(解説付き)を次のリンク先に掲載します。

般若心経の解説
般若心経は『般若波羅蜜多心経はんにゃはらみたしんぎょう』が正式名称です。般若心経・全文仏説ぶっせつ 摩訶まーかー 般若波...

その他のいのり

神道の「祝詞のりと」や、キリスト教でみられる「アファメーション」などもいのりの修行に取り入れています。

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いのり
「いのり」の記事一覧です。

身心の観察(瞑想)

仏教の瞑想とは《身心の観察》です。
仏教の瞑想の目指すところは、心の静けさを表す《寂静》です。寂静は仏語として「煩悩を離れ、苦しみを去った解脱の境地。涅槃。」の意味があります。深く心を落ち着かせて集中力を増すことによって余計なことにとらわれないようになることが、涅槃に至るために特に重要な要素だと思われます。

お釈迦さまの教えに「一切皆苦(すべては思うようにならない、思うように生きられない)」とあるように、この世に生きている限り、この種の苦しみは避けられないもののようです。
今更どうしようもないことに苦しんだり、他の人が何でもないのに自分は苦しみを覚えたりしますが、そもそも苦しみとは、それが結果として済んでしまったものであるにもかかわらず、いつまでもそれに執着してしまうことで生じていますので、苦しみに発展する前に自分の中にある執着に気づいて手放すことが有効な対処法となります。そして、今に苦しみがないことで、過去の後悔や未来の不安も起こらず、今を自由自在に生きられます。つまり、この世に生きる限りは避けることができない、苦しみが次々と生じてしまう環境の中で、涅槃寂静の安らぎで過ごすことを可能とさせる実践法が、常に集中して自分のカラダと心を観察することです。

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身心の観察(瞑想)
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私の四国遍路(走り遍路)

“自分の道は自分で切り開くものである”と教育されてそれを当たり前だと思っている人が多いと思いますが、“何をして生きるべきか?”を自らの自我に問わない方がよいと私は考えています。
あらゆるものは自然の摂理によってあらかじめ意味を持って創造されたものであり、その意味に沿うものが難なく無理なく生存できるようになっていると思うからです。自分も自然の一部であり、自然そのものといえます。それとは別だという誤った意識が人の持つ自我です。そして、人の感覚器官で捉える現象世界も誤った意識によってゆがんだものになっていますから、自我に頼って生きるべきではありません。
自我によることなく、また自我が捉える世界を真の姿だと思い込むことなく、自然の摂理と繋がっている心の奥底にある本当の自分を通じて、身と心をあるがまま・生かされるがままに委ねてみたいのです。あるがままを捉え、生かされるがままを得られる、無我・無執着の境地に至るための実践手法を探るのが遍路7巡目のテーマです。
私の四国遍路(走り遍路)の模様を次のリンク先に掲載します。(新しいウィンドウで開きます)

走り遍路
無事に7巡目を終えました!四国で修行しよう!(当サイトの概要)『四国遍路』は弘法大師・空海ゆかりの地を巡りながら《自分の在り方を改善する》修行の場です。無理なく楽に生きられるようになっていくのですから、不思議で楽しいこと間違いなしです。この