四国で修行

最近、自分の中に異なる意識があることを特に意識しています。「特に意識しています」というのが「本当の自分」なのですが、ふだん意識の別に気づくことなく生きています。例えば「ふらついて危険になったり、翌日に不調が残ったりすることが目に見えていても酒を飲みたい」というのはどの意識によるものでしょうか?カラダ側の意識ではなく、カラダとは別の意識の側だと思います。カラダに良いものを適量飲み食いするのがカラダにとっては良いことですから、カラダはそれを望んでいるはずです。自然の摂理によって存在するものはそれに則して存在し続けるのが自然です。自我の在り方にかかわる問題として、どの意識によるものか、どうあるべきかを自問しながら生活してみると面白そうです。これも仏教の瞑想である「身心の観察」と思います…。

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当サイトの概要

『四国遍路』は弘法大師・空海ゆかりの地を巡りながら、自分の在り方を改善する修行の場です。無理なく楽に生きられるようになっていくのですから不思議で楽しいです。
この四国全体に及ぶ修行環境に身を置くことによって日常生活から離れた自分だけの時間を持ち、じっくりと自分に向き合えます。自分はいかに在るべきかを「自然の摂理」(自然の恵みや自然の働き)を意識しながら探求することとなります(四国リトリート)。

当サイト『四国で修行』及び 別サイト『走り遍路』は、当該サイト開設者が行う遍路修行の模様を掲載しています。この修行によって自らがどう変わるかなどを検証する中で、感じたことや得られたことなども記述していますが、その内容の性質上、不確実なことを含む場合があります。また、修行の進捗による考えや心境の変化などに応じて随時、掲載内容の加筆や見直しを行います。

修行目的

人はさまざまな物事に接した瞬間に脳思考が始まり、過去の情報を引き出し、決め付けるなどの作業を無意識に行い、これに束縛されます。この過程に自我・我欲のエゴも入り込みますから、それをどうにかしたいという期待も生じます。人は自らが思い描いてしまう世界に惑わされながら生きています。

脳思考を抑えることで自らが描く想像の世界が消えて、この世の見え方が一変する寂静の無我の境地に入ります。これを味わうには、余計な思考をしない修行が必要です。
このことによって、物事のありのままを捉えられるようになると思います。

本当の生き方

私たち人間は平素、「人間社会のルール」や「自分自身の信念」に則して生きていますが、もっと根本的で大事なルールを忘れていると思います。それは「宇宙の法則」や「自然の法則」などと呼ばれるものですが、ここでは【自然の摂理】といいます(神や仏は自然の摂理そのものを表すともいえます)。

この世のあらゆる現象や存在は「自然の摂理」によって必要・必然・最善としての【意味】を持って生じているにもかかわらず、地球上でもっとも影響力のある人という存在はエゴ(自我・我欲)によって「自然の摂理」から外れ、この世の調和を妨げる様々な問題を引き起こしています。これによって結果的に人自身もその報いを受けて苦悩に陥っています。それが今の世の中の混沌とした状況です。

他方、私たち人間はこの世の実相を正しく認識して生きていません。私たちが存在する現象界(物質界)は、人の感覚によって知覚できる範囲内の限られた世界です。人はあらゆる現象や存在の背後にある本質を認識できないのです。人間世界の有り様は、人の分かる範囲内のことで何とかしようとしているに過ぎません。人が認識し得る範囲を超えた世界は間違いなくあると思います。
そして、悟りとは「迷妄(めいもう)を払い去って生死(しょうじ)を超えた永遠の真理を会得すること」ですが、ここでいう「真理」、つまり「本当の世界」を人は通常、知り得ないのです。

輪廻転生なるものがあるとすれば、「本当の自分」とはカラダとは別の意識である「魂」だと思います。そして過去世の経験を踏まえて今の人生を送っています。
「本当の自分」が宿った人を「自然の摂理」に則して生きさせることで、この世で生きている【意味】がわかってきます。
そのためには「自然の摂理」の下で一日一日を平穏無事に生かしていただいていることを当たり前ではなく有り難いと「感謝」するとともに、その不思議さに畏敬の念を抱いて「謙虚」でなければなりません…。

「本当の世界」や「本当の自分」を意識しながら、ストレスのない、ラクで楽しい「本当の生き方」をしたいものです。

いのり

生きるとは「いのち」を輝かせることであり、意志を持って生きることがいのちを輝かせることになります。その意志を明らかにさせるのが【いのり】です。つまり、生きるとは「いのり」です。
いのりとは人に宿った「魂」(本当の自分)の尊い意志の現れとともに自然と起こるものであり、自らの宿った人に心を込めて述べさせる行為です。その想いで生きると、自身にも、神仏にも宣言しながら生きるのです。これが神仏の意を受けた魂の使命です。
また、俗世(欲望が盛んな世界)に存在すると、その環境に感化してエゴが生じますから、正しく生きると意識しなければ自然と我欲にまみれていきます。「自然の摂理」に則して正しく生きさせるには、そのように生きるとの強い意志がなければそうなりません。その意味でも「いのり」が必要だと思います。

いのりの語源は「い(意)+のり(宣り)」とのことです。「のる(宣る)」とは辞書で「本来は、神や天皇が重大な事実を宣言する、また、軽々しく言うべきでないことを表明すること」となっています。「のり」とは突き詰めると、神の意が人にのり移るという意味なのかもしれません。
そして、現代人にとっての祈りとは「神仏に対して我欲を満たすためのお願い事をすること」のように見受けられますが、「自らの神性や仏性を呼び覚ますために、神仏の意に沿うことを宣言したり、神仏の教えを唱えたりすること」が本来に近いのかもしれません。
つまり、単なる願いは「望みだけのもの」ですから実現することはありませんが、意志は「望み+実行力」で現実化の可能性があり、その望みが神仏の意に沿うものであれば当然神仏の全面的なバックアップも得られて現実化の大きな励みとなります。本当のいのりが「願うだけのいのり」と「意志を伴ういのり」のどちらであるかは明らかです。
さらに、以上のように考えると「本当のいのり」とは特別なことや一過性の行為ではなく、自らの意志を実現すべく絶えずそのことを意識し続けるために行うものであるといえます。

なお、祈りとは人の本性の行為であり、「いきいきと生きること」がいのりの意味であるという見方も現にあります(下記サイト参照)
それによると、「祈りはいのちに関わるような神聖なものを宣言することであり、生命の根源の響きをことばに乗せて響かせるもの。鳥が大空を舞い、魚が水の中を泳ぐというのは自然本能として普通に行っていることであるが、人の場合も自然本性として祈ることでいきいきと生きられるのである。人とはそもそも宗教的な存在なので、絶対的なものを求めざるを得ないが、お願いとしての祈りをするのではなく、いきいきと生きるような祈りをするべきであり、生きることと祈ることの間に深いつながりがあることに早く気がつくべきだ」と述べられています。

【参照サイト】 真言宗智山派「総本山智積院」(新しいウィンドウで開きます)

手を合わせると-人はなぜ祈り、祈りは何をもたらすのか-

勤行(お勤め)

勤行とは仏道修行の一つで、読経や回向(*)などの一連の「いのり」を決まった方法で行うものです。形式的になってしまわないように、勤行の意義を自分なりに考えて取り組むことで高い修行効果が得られると思います。お経や真言を唱えることが脳を活性化する呼吸法にもなるといわれています。
お遍路では札所参拝時の納経として勤行が行われますが、「お勤め」ともいわれるように家でも日課として取り組めばよいと思います(仏壇は必要ありません)。

(*) 回向(えこう)とは、自分の修めた功徳 を他にも差し向け、自他ともに悟りを得るための助けとすることです。死者の成仏を願って仏事供養をすることを含みます。なお回向の根底にはワンネス(oneness)の思想があると思います。

勤行次第

『真言宗仏前勤行次第』を次のリンク先に掲載します。(勤行次第は宗派や用途において多少の違いがあります)

勤行次第
真言宗仏前勤行次第 インドで発祥した仏教は中国に伝わったときにお経が漢文に翻訳されましたが、中国から日本に伝わったときに...

勤行次第の解説

『真言宗仏前勤行次第の解説』を次のリンク先に掲載します。

勤行次第の解説
真言宗仏前勤行次第の解説 勤行の核心は「般若心経」です。般若心経に向けて心を整え仏性を起こします。そして、お経をほめたた...

般若心経

般若心経は日本で一番よく唱えられているお経だといわれています。「勤行」で唱えるお経の中心でもあります。

人は脳が発達しているが故に負の側面として、知らず知らず常に深く考え込んで事を複雑化し不安を抱いて、勝手に苦悩にさいなまれるという困った生き物です。でもその一方で、頭を空っぽにすれば幸せを感じられるという面白い性質も持ち合わせています。
これらの性質を上手く利用すれば、人の優れた知能を最大限に生かした人生を送ることもできますが、頭でっかちな現代人にとっては頭を空っぽにすることが意外に難しいです。その頭を空っぽにするための方法を説くのが般若心経です…。

『般若心経の解説』を次のリンク先に掲載します。

般若心経の解説
般若心経・全文 仏説摩訶般若波羅蜜多心経ぶっせつまーかーはんにゃーはーらーみーたーしーんぎょー観自在菩薩かんじーざいぼー...

その他のいのり

神道の「祝詞のりと」や、キリスト教でみられる「アファメーション」などもいのりの修行に取り入れています。

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いのり
「いのり」の記事一覧です。

身心の観察(瞑想)

仏教の瞑想とは【身心の観察】です。
仏教の瞑想の目指すところは、心の静けさを表す「寂静」です。寂静は仏語として「煩悩を離れ、苦しみを去った解脱の境地。涅槃。」の意味があります。深く心を落ち着かせて集中力を増すことによって余計なことにとらわれないようになることが、涅槃に至るために特に重要な要素だと思われます。

お釈迦さまの教えに「一切皆苦(すべては思うようにならない、思うように生きられない)」とあるように、この世に生きている限り、この種の苦しみは避けられないもののようです。
どうしようもないことに苦悩したり、他の人が何でもないのに自分は苦しみを覚えたりもしますが、そもそも苦しみとは、それが結果として済んでしまったものであるにもかかわらず、いつまでもそれに執着してしまうことで生じていますので、苦しみに発展する前に自分の中にある執着に気づいて手放すことが有効な対処法となります。そして、今に苦しみがないことで、過去の後悔や未来の不安も起こらず、今を自由自在に生きられます。つまり、この世に生きる限りは避けることができない、苦しみが次々と生じてしまう環境の中で、涅槃寂静の安らぎで過ごすことを可能とさせる実践法が、常に自分に向き合ってカラダと心を観察することです。

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身心の観察(瞑想)
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私の四国遍路(走り遍路)

“自分の道は自分で切り開くものである”と教育されてそれを当たり前だと思っている人が多いと思いますが、“何をして生きるべきか?”を自らの自我に問わない方がよいと私は考えています。
あらゆるものは自然の摂理によってあらかじめ意味を持って創造されたものであり、その意味に沿うものが難なく無理なく生存できるようになっていると思うからです。自分も自然の一部であり、自然そのものといえます。それとは別だという誤った意識が人の持つ自我です。そして、人の感覚器官で捉えるこの現象世界も誤った認識によってゆがめられたものですから(「般若心経の解説」ページ参照)、本来自我に頼って生きるべきではありません。
自我によることなく、また自我が捉える世界を真の姿だと思い込むことなく、自然の摂理と繋がっている心の奥底にある本当の自分を通じて、身と心をあるがまま・生かされるがままに委ねてみたいのです。あるがままを捉え、生かされるがままを得られる、無我・無執着の境地に至るための実践手法を探るのが私の四国遍路です。
私の四国遍路(走り遍路)の模様を次のリンク先に掲載します。(新しいウィンドウで開きます)

走り遍路
無事に7巡目を終えました!四国で修行しよう!(当サイトの概要)『四国遍路』は弘法大師・空海ゆかりの地を巡りながら、自分の...