一般的に、宗教は方便(人を真実の教えに導くために仮にとる便宜的な手段)を用いて教えを説いていますが、そのことがあまり理解されていないと思われます。
だから、輪廻転生などと聞いても、人によって、“ウソだ・そうかも・根拠は?”とかなってしまいます。
真理は人知の及ぶことではありません。特に一般大衆に研さんを課しても修行に専念することは困難ですから、宗教を広めるにあたって都合よい方法が必要であったと思われます。その方便はもちろん、それを信用して修行すれば、結果的にはその教えの本質を享受できるようなものでなければなりません。
今は読み書きのできない人が多かった時代とは異なります。情報にあふれていて現代人も知識は豊富です。方便の内容によっては不信や違和感を抱く人も出てきます。
例えば輪廻転生についてもこれが真理と言っているようにとらわれがちですが、これも人が思い付くような単純なものではなく、実際には業(ごう)によることにとどまらない人知を超える仕組みでの転生かもしれません。
いずれにせよ、宗教を説く側がいちいち自らの教えが方便だと前置きすることもないでしょうから、宗教では方便が用いられることをあらかじめ理解しておくことで、宗教に正しく向き合うことができます。
あるときのお遍路にて、札所寺院でお堂の中を覗き込む参拝者の方がいたので、「四国霊場では仏像がよく見えないところが多くて残念ですよね。」とお声掛けしたら、関西から来られた方で、『西国三十三所』(さいごくさんじゅうさんしょ)の札所寺院では仏像がよく見えるとのお話しでした。これを聞いて、参拝者のニーズによく対応できているなと思いました。
そもそも仏教で仏像が用いられたのは、仏教がインドから広まっていく過程の大乗仏教の宗派においてのことであるようです。物質世界に生きている私たちはおのずとモノ(物質)に執着してしまうのですから、仏像を使って人を本質的な境地へ導くのも有効な方便だと思います。
方便としてそこに仏像があるのであれば、見えないよりは見えた方が有難いと思う一方で、盗難などのリスクを危惧します。最近の犯罪を見るにつけ“狙われたら終わり”と感じますので、狙われないことが大事です。
本来、仏像が無くても本質的なことを感じられればよいのだから、逆に見えない方がその修行になると思ったりもします…。